近代の日中韓3国農村における協同組合運営と村落社会のあり方について、検討を行った。本研究のベースとなる斎藤仁氏の自治村落論は今日でも大筋で承認されているが、いくつか再考すべき問題が浮上した。 日本については、まず明治末期の秋田県の事例から、多くが部落組合であった(「区域狭小」)ゆえに設立後数年で解散・合併に追い込まれるケースが少なくなかったことが判明した。斎藤説の“当初部落組合であったゆえに成功した”という主張と整合しない。また昭和前期の山口県産業組合一斉監査では、しばしば貸付金・購買代金回収状況や簿冊・書類の管理状態の不十分が指摘されている。面接性の高い村落という環境が一方で不正行為を抑制する面と、逆に馴れ合いによるルーズさを生む面も想定される。 また農村側の結集力・凝集力が弱かった中国では、自立的かつ自発的な形で合作社が組織・運営されたとは言い難い。ただし、経済的先進地域である江蘇省南部では、商品経済が広範に展開していたことから、農産物の共同出荷を主要な業務とする運銷合作社や運銷業務を兼営する合作社が急速に拡大・発展した。日本とは異なる組合主義を想定していく必要があると言える。 凝集性・共同性が日中両国の中間にある韓国(植民地朝鮮)農村社会では、朝鮮総督府の主導により金融組合の設置が進められた。ここでしばしば発生する問題は、日本人役員と朝鮮人組合員との対立である。植民地政策として推進された歴史的特質を持つと言えるが、朝鮮人農民は組合そのものを拒絶していたわけではなく、逆に役員層を糾弾する際に「組合精神を守れ」と主張することもあった。
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