科学技術史上、幕末期に西洋との技術格差が著しかったという点では、造船に勝る分野はないといわれている。本研究の目的は、安政3年(1856)に長州藩が完成させた洋式軍艦「丙辰丸」に注目し、幕末期同藩における軍事科学的洋学の受容と展開及び実践の過程を検討することにある。 本研究では、洋式軍艦建造に関する長州藩の政策決定の過程や、同藩での洋式造船知識の集積、技術の習得過程及び技術者招聘の経緯を解明するとともに、ロシア人の造船技術を基に「丙辰丸」を完成させる迄の過程を追うことで、19世紀転換期に西洋科学技術が在来技術に与えた影響を解き明かした。 加えて、最終年度においては、長州藩の洋式軍艦の建造と運用に当たり中心的な役割を果たした松島剛蔵に焦点を定めた。西洋兵学者であり尊皇攘夷派でもあった剛蔵の足跡を再現した結果、次の2点が明らかとなった。(1)松島剛蔵の40年にわたる生涯を辿ると、“藩の武士的ヒエラルキーの末端に位置する藩医が、蘭学を身につけ学才を発揮した結果、その道のスペシャリストとして兵家に転じ藩政に参画していく”というプロセスが見えてくること。 (2)このプロセスの中で剛蔵の行動を特徴付けたものは、彼の有する二つの人的ネットワークであったこと。一つ目は、周布政之助ら嚶鳴社の藩学グループとのネットワークで、政之助が主導した軍制改革を知識面と実践面の両面から支えるなど、西洋兵学者としての実力を遺憾なく発揮するに至ったこと。二つ目は、久坂玄瑞ら松下村塾グループとのネットワークで、次弟の小田村伊之助が吉田松陰の妹と結婚したことから、久坂玄瑞ら松下村塾グループと親密な間柄となり、御楯組を結成して攘夷血盟を行うなど、玄瑞らとともに尊皇攘夷派の急先鋒となるに至ったこと。 これら2点は、長州藩明治維新史研究の欠落を補うと同時に、幕末洋学史研究の空白を埋めるという、二重の意義を有している。
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