古代集落は、全国的に9~10世紀に崩壊したとされているが、福岡市域を事例として精査すると、9世紀には治水がうまく機能していないことが看取される。確かに集落の数は減っているが、一方で散在的に存続している集落も見いだせ、集落が外側・周辺部に展開しているようである。こういった現象を総合的に見れば、条里水田面から谷戸に生産基盤が移動したという仮説が成立するだろう。いわば、中世的景観の端緒である。つまり、旧秩序の崩壊→公共事業(灌漑・復旧)の壊滅→谷戸田から始まる中世的景観(大中河川からの灌漑による条里水田面の放棄、小河川から門田に引水)と推移したのではなかろうか。
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