本年度は、明治10年代前半における内務省の勧農政策の変遷と農商務省の設立について明らかにした。以下はその概要である。 内務省による勧業政策は多くの地方官の支持を集めていたが、その効果を疑問視する声もあり、政府高官の中には地方勧業の効果を認めない者も存在した。また、民権派新聞・雑誌は勧業政策を民業への過干渉、妨害等として繰り返し批判した。このような状況下においても内務省勧商局長の河瀬秀治は、外国商人に対抗する必要等から政府主導の積極的な勧商政策を貫こうとした。一方、内務省勧農局長の松方正義は、農業不振の一因として政府の民業介入が人民の独立の気性を削いでいることを掲げ、この対策としてヨーロッパ農業制度を模範とした共進会(農事会も含む)や農区制度を導入した。 また、内務省の織田完之は財政危機に対応する農部・商部省案を考案し、農業の積極的指導と商業の管理監督を掲げたが、政府に採用されることはなかった。一方、参議兼開拓使長官の黒田清隆は国会開設運動に対応する農商務省案を提議し、大隈・河瀬の路線に沿った積極的な勧業構想を示した。新聞・雑誌は政府関係者から漏れる農商関係の省設立、官制改革の噂を報じ、新省設立は経費の無駄であると厳しく批判した。 そして、明治13年11月、大隈重信と伊藤博文は、事務簡略化と経費節減を主旨とし、内務・大蔵省の重複事務の分合、資金貸与の修正を実行するため農商務省設立を建議した。しかし、翌14年4月に設立された農商務省の事務章程には殖産興業縮小を表す文言はなく、控えめながら農商工業を勧奨する姿勢が示されていたのである。
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