研究目的に沿って、佛教大学附属図書館所蔵『新発田藩京都留守居役寺田家文書』のうちから、特に『御用留』の慶応3年分を中心に解読し、大政奉還から王政復古政変の時期に至る京都留守居の活動と政局とのかかわりを、具体的に明らかにすべく、考察を行った。とくに、10月13日、諸藩重臣の二条城召集において、寺田喜三郎はその場に参加し、政権上表草案の写本を含む関係記録を残している。その場に列席した当事者が書き残した自筆記録は、これまで知られていないものであり、その発見は大きな成果である。 慶応3年10月14日の大政奉還の直後、新発田藩(溝口家)では、当主誠之進の名代として、家老窪田平兵衛が上京することになった。その動きは、先発として上京した、寺田惣次郎が書残した記録と、喜三郎の記録とを突き合わせることにより、より鮮明になる。 京都留守居寺田喜三郎は、窪田の京都における補佐役として、情報収集や、御所への参集など、積極的な活動を展開している。また、その前後の時期にも、在京諸藩は、単に事態の推移を傍観していたわけではなく、相互に連携して朝廷への建白を行うなど、薩長土3藩の動きをけん制し、みずからの存在と政治的主張を、政局に反映すべく、活発な動きを示していた。それは実際に功を奏し、薩長土3藩にしても、決して、その思い通りに政局を牽引できていたわけではなく、在京諸藩と折り合いをつけながら、王政復古政変、さらには、その後の政局が展開されていったことを明らかにした。
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