スイス盟約者団は、13世紀末以降アルプス中央部の「原初三邦」を主体にいくつかの大都市や農村との盟約の輪を拡大することによって、15世紀初頭には一大勢力をなした。その敵対勢力とされたのが、ハプスブルク家である。とりわけハプスブルク家のスイスにおける拠点アールガウ地方が1415年に盟約者団によって占領・分割されたことは、ハプスブルク勢力のスイスにおけるその後の影響力の著しい低下の契機になったと考えられてきた。 本研究では、そうした理解が一面的であると考え、スイス北西部の都市バーゼルの東南に広がるバーゼル農村地域(シスガウ・ラントグラーフシャフト)における秩序形成のあり方を原史料に基づいて分析することを目的として検討を続けた。その際のポイントは、1501年に盟約者団に加盟することになるバーゼル、前方オーストリア政策を展開しているハプスブルク家、特にハプスブルク家の先鋒役となった有力在地貴族の動向との相互関係を念頭におくことであった。 研究期間全体を通じ、毎年バーゼル農村邦公文書館を訪問して、所蔵されている原史料を確認、いくつかの史料について手ずから写し取り、あるいはデジタル画像に基づいて翻刻、部分的な翻訳、不明な点については文書館員からご教示を得るなど作業を進めた。また2年目にはバーゼル都市邦公文書館、ディジョン(ブルゴーニュ)の2つの公文書館、最終年度にはコルマール(アルザス)の公文書館を訪問し、在地貴族(マルクヴァルト・フォン・バルトエックなど)に関する史料や研究文献、それら本文中での言及箇所について調査を行った。 結果として、15世紀後半にエンシスハイム(アルザス)の宮廷裁判が地域の上位裁判としてハプスブルク家によって主宰され、有力在地貴族がその担い手となり、地域の紛争の調停者として大きな役割を演じていたことを析出し、ハプスブルク家の役割と意義について一定の見通しを得た。
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