ハプスブルク国家は1867年のアウスグライヒ(協調)でオーストリアとハンガリーの自立した二つの部分からなる一種の連邦制の形を取った。そのうちオーストリアでは人権に関する基本法で民族の平等を謳っていた。しかしそれはあくまでも歴史的に培われてきた領邦の自治の延長線上にあり、領邦を超えて人が移動する事態に対応することは困難だった。ウィーンに働きに出たチェコ系の人たちは、子供たちが母語であるチェコ語とウィーンで生きていくために必要なドイツ語の習得が出来るように、チェコ語で授業をする学校、コメンスキー学校を設立した。 第一次世界大戦の勃発はウィーンの少数派学校としてのコメンスキー学校に大きな負担となるものだった。戦時下のコメンスキー学校では男性教員が出征したため教員の確保が課題となった。また学校教育の中で自国の戦争遂行に生徒たちが協力するよう求められた。その一つに戦傷兵への慰問品の製作があった。「ウィーン市教育委員会は、これまで傷病兵への慰問品として手作りの品がどれだけ作られ、どこに送られたかのリストを要求している。私たちは各学年で完成させた手作り品の数を確かめなければならない。」 戦時下国民の戦意高揚のためにフランツ・ヨーゼフ帝即位67周年記念行事へ生徒たちが動員された。「1915年11月2日、フランツ・ヨーゼフ帝即位67周年の記念行事があり、5年生から7年生の生徒が体操競技に参加し、この日の意味について講話があった。3年生、4年生は観客席でオーストリア賛歌を歌い、講話を聞いた。」戦争の継続とともに生徒の家庭の貧困が問題になり、その調査が行われた。そこには戦争の影響が学校の教育に直接影響を与えていたことが明確に示されていた。
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