本研究は、ロシア革命後に共産党政権に反対して亡命したロシア人が形成した「在外ロシア」世界とソ連社会主義体制との対立と相互浸透の諸相を、戦間期の国際都市ハルビンを中心として同時代の史料に基づいて実証的に分析し、在外ロシア世界の変容とその歴史的意義を解明することを課題とした。本年度は、日本と深いかかわりを持ったある亡命ロシア人の足跡を分析することを通じて、満州を舞台とした亡命ロシア人とソ連との相互関係の流動性について具体的に検証し、その歴史的意味を考察した。 この課題を遂行する過程で、以下のような諸点を明らかにすることができた。(1)日本軍によって通訳として雇用された亡命ロシア人アヴドシェンコフは、ハルビンに移住したのち在外のままソヴィエト国籍を取得したことにより、ソ連系市民へとその身分が変化した。(2)在外のままソ連国籍を取得した旧ロシア帝国民は多くの場合、ソ連系機関との取引を有利に図る目的や、中東鉄道をはじめとするソ連系機関に勤務することで生計の道を確保する必要から国籍取得を選択した。しかしアヴドシェンコフの場合、ソ連国籍の取得は経済的な必要性からではなく、社会主義革命によって誕生したソ連を支持しそこに帰属しようとする政治的信条からであった。(3)アヴドシェンコフの国籍選択の事例に、亡命ロシア人に対してソ連が及ぼした影響力の一端を見出すことができる。しかし、1932年に満洲国が成立して日本軍当局の意向が在満ロシア人社会に決定的な意味を持つようになると、ソ連国籍を取得した元亡命者の境遇も大きく変化し、アヴドシェンコフは最終的にソ連に帰国した。一方、ソ連では1937年にハルビン帰還者に対する大量抑圧が動き出し、帰国した日本語通訳アヴドシェンコフもまた、他の多くの帰還者と同様「日本のスパイ」としてスターリンの「大テロル」による犠牲となった。
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