加耶と倭との対外関係を示す考古資料は、韓国では須恵器などの遺物、倭系横穴式石室などの遺構を確認することができるが、倭との関係を考古学的に追及するには資料が少ないのが現状である。しかし、倭系文物のこの僅少さこそは亡霊のように出てくる「任那日本府」実在説を考古学的に否定するものである。 日本では、多様な加耶系文物を確認することができる。諸加耶の特定が可能な陶質土器は、古式陶質土器洛東江河口様式、古式陶質土器内陸様式、高霊タイプ陶質土器、咸安タイプ陶質土器、固城タイプ陶質土器などがあり、倭と加耶との具体的な対外関係を知ることができる良好な考古資料である。 これまで、高霊タイプ陶質土器、咸安タイプ陶質土器、固城タイプ陶質土器などの日本出土例を調査し、倭と加耶との対外交流、そして大和政権中枢だけでなく地方豪族と大加耶・阿羅加耶・小加耶との政治的関係を追及してきた。その中で、高霊タイプ陶質土器と咸安タイプ陶質土器との器種構成に相違があることが分かった。この器種構成の差異は、大加耶と倭、阿羅加耶と倭との関係の相違を物語っているように考えた。高霊タイプ陶質土器は壺類がほぼ2/3を占めているが、咸安タイプ陶質土器は4世紀代の壺類出土例はあるもののほとんどが供膳具類である。 壺類を日本へ持ってくる際、内容物無しとは考えられない。何らかの必需品ないしは交易品などを容れて持ち込んでいるはずである。その場合、固体であれば、わざわざ壺に容れる必要性はない。一方、液体も考えられるが、漏れや壺の破損を考えると無理がある。日本出土の陶質土器壺すべてにあてはめることはできないが、可能性のあるものとして「蜂蜜」を挙げることができるのではないか。蜂蜜はゲル状で固まる場合もあり、最適な内容物ではないか。日本では蜂蜜採取は平安時代になってからで、薬として蜂蜜が大加耶からもたらされた可能性が指摘できるのではないか。
|