ドイツ経済は、1920年代末以降急激に悪化し32年には欧州主要諸国の中で最深の後退を示したが、第三帝国に入ると急速に回復し、製造業生産指数でも工業部門失業率でも38年までに最良の値を示すに至った。この実績は数量景気の発動を追求した「起爆」政策によって達成されたとされるが、この政策コンセプトは新自由主義(オルド自由主義)の経済学者ヴィルヘルム・レプケに由来している。本研究ではその考え方が示された、ライヒスバンク総裁ハンス・ルターが主宰する1931年9月16,17日の「秘密会議」議事録等を分析して、レプケの起爆論の特質を次の諸点について明らかにした。(1)「起爆」は反循環的景気対策ではなく、基本的に景気循環論に由来する景気の自動回復を前提とし、谷を抜けた後の景気刺激を公共投資によって実施しようとするものである。(2)その際の信用拡大は、ドイツ一国で行うべきではなく、「国際的通貨政策」として、即ち外国債により調達された資金によって実施すべきである。(3)ただし、一国内での信用拡大の僅かな可能性が存在しており、それは遊休状態にある合理化投資による設備と失業状態にある労働を有効活用し、数量景気を引き起こすという条件のもとに展望されうるが、その可能性は極めて小さい。レプケのみならず、元蔵相でマルクス主義者ヒルファーディングも共有した景気の「自己治癒」論から有力な支援を得て、ルターは、ポンド・スターリングの金本位制離脱と為替切り下げ実施の直前に、ラウテンバッハ・プランを「棚上げ」にする結論を導き出した。第三帝国の景気回復はレプケのシナリオの(3)の方向で推移したが、景気回復過程で生計費の高騰が政策的に抑制された。農業を国家食糧団が組織した後、1936年以降、価格操舵の権限を価格形成委員が掌握したことによって農産物価格は抑制され、軍需景気の中での賃金コスト上昇圧力が緩和された。
|