1 海南島の現地調査は、民間団体「海南島近現代史研究会」によるもので、訪問した村は、白砂黎族自治県栄邦郷令尾村、光村村、同県邦渓鎮南北溝村、同県七坊鎮高石村 、七坊鎮英歌村、東方市八所村、昌江県四更鎮新街、南陽鎮老王村、文昌市潭牛鎮昌美村、甲子鎮土卜嶺村、甲子鎮慶雲村、加楽鎮常樹村、澄邁県沙土福留村・欽帝村などで、日本軍に村を襲われ、家族を殺され、村から追われて山中での暮らしを強いられ、家畜・家財を奪われ、家を焼き討ちされ、生活を破壊された苦難の状況を聞かせていただき、犠牲者の名前および人数を記録した。 甲子鎮土卜嶺村の梁振三さん(90歳)によると、73軒の村がすべて焼き打ちされ、祠堂で隣村の慶雲村の村人17人が殺された。澄邁県沙土欽帝村では幸存者の王世杰さん(1932年生) と王徳林さん(1931年生)から、村民を並ばせて機関銃を乱射し、村人76名が殺されたときの話をうかがった。 2 元日本兵として、元舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊兵士だったS氏(大阪在住)から、海南島北部の臨高分遣隊で海上警備や日本企業の農園の「警備」などに従事した話を聞いた。S氏は敗戦後にベトナム独立戦争に参加した。 3 海南島の侵略犯罪から見えてくる日本の植民地主義について。近代以降、日本の権力の作動様式となった植民地主義は、敗戦の断絶を貫いて戦後の社会にも作用している。戦前の植民地主義がアジアの民衆に対する虐殺、性暴力、強制労働、資源・食糧略奪というかたちをとって発現し、戦後はその植民地犯罪を否認ないし隠ぺいすることによって植民地主義の原理を温存した。象徴天皇制、米軍の統治、高度経済成長のうちにその原理を探ると同時に、植民地犯罪に対する戦後責任を果たし、脱植民地主義化に向けた社会形成の方向を提言する。
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