厚生省児童局保育課長として、児童福祉法による保育所の具体化に取組んだ吉見静江が、厚生省入職前に館長を務めた興望館セツルメントの保育園に注目した。吉見は1929年9月にNY社会事業学校から帰国後、興望館の館長に就任した。同年4月からの保育日誌によれば、当初の保育は恩物を用い幼稚園の形態に準じた指導性の強い一斉の活動が主であった。それが吉見の就任後約半年を経過するうちに、保育日誌においても個々の児童の姿の記載がみられるようになるなど顕著な変化が見取れた。これを興望館業務日誌とあわせ検討した。 また、吉見の厚生省における仕事を、保育所保育に関する業務について追った。吉見の公職時期(1947年12月~1959年)に保育行政に直結する刊行物等として「保母養成施設の設置及び運営に関する件」(厚生省児童局長通知昭和23年第105号)、「児童福祉施設最低基準」(厚生省令昭和23年第63号)、「保育所運営要綱」(1950年)、「保育指針」(厚生省児童局1952年)、「保育の理論と実際」(厚生省児童局1954年)、「保育所の生活指導」(吉見静江著、赤城書房、1954年)、「保育児童のケースワーク事例集」「同 第2輯」「同 第3輯」(厚生省児童局1957~1959年)があり、全てに吉見は中心的に関わり、内容をたどることで吉見が牽引した保育行政が整理された。しかしながら保育行政が吉見課長の仕事の主であっても全てでなかったことが、国立公文書館に所蔵されている同時期の厚生省児童局関連資料から明らかにされた。 日本国憲法の制定と共に一人一人の幼児理解を基盤とした保育が進められ、特に保育所保育においては、個々の幼児の理解が家庭的背景への理解を含んで論じられ、どんなに幼くても人としての尊厳と主体性を乳幼児に保障する重要性が指摘されている点に、人権思想をベースとしたソーシャルワーク理論との関連性がみられた。
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