研究課題/領域番号 |
25381010
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研究種目 |
基盤研究(C)
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研究機関 | 宇都宮大学 |
研究代表者 |
佐々木 英和 宇都宮大学, 地域連携教育研究センター, 准教授 (40292578)
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研究期間 (年度) |
2013-04-01 – 2016-03-31
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キーワード | 自己実現 / 自我実現 / 自我 / 自己 / 理想主義 / 人格 / 人格の完成 / 教育勅語 |
研究概要 |
本年度は、日本における自己実現思想の始まりの様相を着実に把握できたという意味で、非常に画期的な年となった。自己実現思想が輸入され始めた明治中期において、イギリス理想主義が主導的な役割を果たした思想だったと判明したが、日本側の受容の仕方に焦点を当て直せば、重要ポイントとなる事実認識として、以下の三点を強調できる。 何より第一に、日本語「自己実現」の歴史的原点については、イギリス英語“self-realisation”を中島力造が「自我実現」と訳して『哲学雑誌』1895(明治28)年12月号に発表した時点だと確定できた。1892(明治25)年10月に中島が哲学会例会で「英国新カント学派に就て」と題した講演の中でトーマス・ヒル・グリーン(Thomas Hill Green)の思想の大枠を紹介して以来3年を経て、満を持して登場した日本語が「自我実現」だったというわけである。 第二に、「自我実現」もしくは「自己実現」という言葉は、イギリス理想主義の祖であるグリーンの名が常に前面に打ち出されつつも、実際にはミュイーアヘッド(Muirhead)による平易な自己実現思想を媒介として日本に広まったとみなせる。というのは、グリーンの自己実現思想は「神と人間との調和的関係」を問い続けている点で非常に難解だったのに対して、ミュイーアヘッドのそれは「個人と社会との調和的整合」を推奨するものであり、キリスト教的背景を持たない日本人にとっても比較的容易に理解できるがゆえに受け入れやすいという一面があったからである。 第三に、「自我実現」という言葉が造語されたタイミングは、近代日本語として「自我」が造語された瞬間でもある。そして、中島や桑木厳翼が「自己が自我へと実現すること」を「自我実現」として位置づけた思いを踏まえることにより、「自己実現」と「自我実現」とを分けて考えるべき倫理的意味を明らかにできた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本年度の当初の計画としては、海外の思想・哲学との関係において日本の自己実現思想が教育学的にどのように受容されていったかについて、①イギリス理想主義の影響、②ドイツ観念論哲学の影響、③アメリカ哲学との関連、④ギリシャ古代哲学との関連、⑤東洋思想との関連、といった5つの柱に基づいて概観する手はずにしていた。そこで、本年度は、その基盤的作業として、哲学・倫理学系の古雑誌の幅広い収集を最優先事項としていた。そして、非常に運が良かったことに、『哲学雑誌』(創刊当時は『哲学会雑誌』)を1887(明治20)年の創刊号から1955(昭和30)年まで全巻揃えて、手元に置いて直に見られる体制を整えることができた。 その意義は、本研究の達成度を評価する上で極めて重要である。第一に、ずっと手つかずにして放置していた難題、すなわち日本語「自己実現」の歴史的原点を確定するという課題に片がついた。第二に、今年度は具体的な研究成果を出すことはできなかったけれども、自己実現概念に対するイギリス理想主義の影響はもちろん、ドイツ観念論やギリシャ古代哲学などの影響を、時系列的な変化を追いながら確認するための基盤が整った。第三に、日本語「自己実現」の創始者である中島力造が明治・大正時代の教育界に極めて大きな影響力を行使していたことが再確認できたので、自己実現思想の変遷を追うだけでも教育学的意義を十分に見いだせるということがはっきりした。 このように、想定外に大きな発見ができて、本研究は大変に進展した。だが、イギリス理想主義以外の諸々の思想については、ある程度の準備が資料収集面で整えられたとはいえ、表に出して評価してもらうに値するようなレベルの成果をほとんど残せなかった。よって、本年度の本研究の進捗状況について総括すると、プラスマイナスの差し引きをして、「おおむね順調に進展している」という自己評価を与えることとした。
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今後の研究の推進方策 |
平成26年度は、海外の思想・哲学との関係において自己実現思想が教育学的にどのように受容されていったかを概観しながら、日本独自の自己実現思想が教育分野で展開している状況を系統立てて整理する。このとき、以下の切り口が教育学的にどのような意味を持つかを意識する。 第一に、日本語としては「個人と社会との調和」概念として歴史舞台に登場した「自我実現」および「自己実現」がその後どのような展開を辿ったかを丁寧に追う。特に、比較的早い時期から「自己実現」が「自己犠牲」と調和的なものとみなされていたという、逆説的に見える思想的事実を重視する。 第二に、「個人と社会との関係」概念であった自己実現が「個人と国家との関係」概念へとずらされていく思想史的過程や社会的受容過程を描写する。特に、当時の思想家の多くが「社会」と「国家」とをほぼ同義に扱っていたので、その諸事情を分析・考察しておきたい。 さらに、第一と第二の視点を統合的に見渡すという意味でも包括的な主題として、日本語「人格」と「自我実現・自己実現」との関係を問うことが必要となってくる。というのは、中島力造が造語した日本語「自我」は、個人至上主義の象徴とみなされがちな「自己」との区別が強く意識されていたものだが、時を経るにつれ両者が混同され出したので、この言葉の創造主の中島が「自我実現」を放棄して、「個人と社会との調和」という意味合いで「人格」を定義し「人格実現」を提唱し始めたほどだからである。また、大正時代に中島半次郎が定義した「人格的教育学」が「個人的教育学」と「社会的教育学」との調和を図るものとして理解されていたことも見逃せない。 そこで、「人格」という用語について、戦後教育学では「個人」という次元でのみ捉えられがちであるのに対して、戦前教育学では「個人と社会との調和」が前提となって用いられているという仮説を立て、その検証を進める。
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次年度の研究費の使用計画 |
本年度は、本研究の大前提となる史料を収集することを最優先する年となった。結果的に、『哲学雑誌』(創刊当時は『哲学会雑誌』)を1887(明治20)年の創刊号から1955(昭和30)年まで全巻揃えて、手元に置いて直に見られる体制を整えることができたが、その内容の集団的調査を進めることについては、事前の打ち合わせにかかる時間等を勘案し、研究代表者がほぼ一人で行うこととした。そのため、研究補助者の力も借りながら、膨大な史料を手分けして調査することは最小限にとどめたので、研究補助に伴う人件費を次年度に持ち越すこととした。 明治・大正・昭和前期の膨大な歴史的史料について、チームを組んで効果的・効率的に探索するための人件費に用いる予定である。
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