研究課題/領域番号 |
25381012
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研究機関 | 埼玉大学 |
研究代表者 |
坂西 友秀 埼玉大学, 教育学部, 教授 (30165063)
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研究期間 (年度) |
2013-04-01 – 2016-03-31
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キーワード | 旧満洲国 / 日本語教育 / 尹東柱 / 皇民化教育 / 間島普通学校 / 国民学校 / 国民優級学校 / 旧大成中学 |
研究実績の概要 |
旧満洲国における「日本の教育」普及の過程を現地の史(資)料、聴き取りを通して明らかにすることが研究の目的であった。延辺を訪れ、この地が日本が建国した傀儡国家「滿洲國」だったことを初めて認識した。 博物館や革命紀念陵圓で、日本の植民地支配の実態を被支配国の住民の視点から知ると共に、抗日運動がどのように展開されたかを知ることができた。特に龍井の旧大成中学校、歴史記念館は、朝鮮族が如何に教育を重視してきたかを教えるものであった。戦争為政者・軍は領土を占拠し、人々の社会、生活、制度、信念、思想、文化、伝統、言語、すべてを支配・統治する。そのための最も基本的な手段が、植民地教育である。「伯父さんは、中国人でありながら中国語を話せず、日本語を話す」、香春さん(通約者)が話した通り、日本が欺瞞的に鼓吹した「朝鮮族解放」は植民地化そのものだった。しかし、征服者に対抗する力もまた教育によって培われる。展示資料は、このことを教えている。延辺の日本語教育は、1909年「間島普通学校」の開設に始まるという。そこでは、修身、国語、算数、日語、図画、体操、理科、物理、地理、歴史などが教えられた。国語とは、朝鮮語を指している。1910年の日韓併合で、日本語教育は本格化して、1945年の日本の敗戦で日本語教育が廃止されるまで続いた(山本, 2011)。1931年の滿洲事変は事態をさらに悪化させた。 「日本が朝鮮族を初めて利用して勢力浸透を始めたのは、日露戦争以後、『間島問題』を捏造してから」であり(姜, 2011, p15)、朝鮮族と日露戦争、日本のアジア侵略は深刻な関わりをもつものであった。臺灣統治と同様、「満洲國」の建設に教育は欠かせなかった。心理学者が、天津や奉天(瀋陽の旧称)で行った調査研究の背景には、極東アジアへの日本の侵略戦争と教化政策があった。仏の現地調査はまとめているところである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
中国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市を訪問調査した。小・中学校、大学、博物館、戦争記念館、龍井旧大成中学校、領事館、等を現地調査した。民族問題があり、入国、乗り換え機搭乗時には保安員がゲートで荷物を開け、厳しいチェックを受けた。研究は、「日本の教育」が東アジアで展開された過程を明らかにし、概ね計画通り進んだ。記念館等には、展示案内パンフレット、展示関連書籍の販売が少なく、許可されて撮影した写真を資料として用いる工夫を余儀なくされたが、現地でなければ得られない資料を用いて整理することができた。旧満洲国における現地の教育の実態を現地の史跡・資料及び聴き取りにより現状を把握することができた(以下参照)。当時、龍井の学校教育は日本の支配を逃れることはできなかった。朝鮮族の民族教育は、清朝と国民党政府の施策と日本の支配の狭間で揺れ動き、喘いでいた。間島日本総領事館設置(1909年)後、日本教育支配が急速に進んだのである。 1931年9月の「滿洲事変」と、傀儡国「滿洲國」建国で事態は急激に悪化した。在満朝鮮人は「滿洲國」第2等国民(1等は日本人、3等は漢人)とされた。「朝鮮人が運営してきた数百ヵ所の私立学校が焼き払われ、取り締まりを受け、革命意識と民族意識をもつすべての教員と学生は弾圧された。…小学校と中学校を強制的に『国民学校』『国民優級学校』『国民高等学校』に改めた。1944年の延辺の統計では、小学校は557校、在学生は96,700余名であり、中学校は18校(多くは職業学校)、在学生は6,700余名であった」。光明学園高等女学部が1938年 1月には省立龍井女子国民高等学校と改称、大成中学校については「翌39年 5 月末現在では ,私立龍井大成国民高等学校の名前が消え」(原・潘・隈部,1995)とあり、日本の統治による学校名称変更であることが確認できる。
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今後の研究の推進方策 |
19世紀末期には、日本は欧米諸国から開国を迫られ、欧米の先進的技術を導入した。日本社会の建築・施設設備の整備、さらに社会制度・法制度の近代化を早急に実現するには、欧米に倣った学校教育の制度の確立が必須であった。 1872年、近代学校制度の基礎となる学制が発布された(1879年学校令まで)。全国に小学校、中学校、大学校を設置する大規模な教育計画であったが、それまで学校教育制度のなかった日本には、系統的に組織立てられた教材・教科書もなければ、教育を担う教員の養成も行われていなかった。他方で、庶民の側にも教育を受ける経済的余裕、精神的ゆとりはなく、意識上の準備はできていなかった(坂西, 2005)。 学制が発布された同年(1872)に師範学校が設置された。学校教育を担う教師の養成が急務であったからだ。一連の研究の目的は、心理学がどのような時代背景の中で「敎育の心理學」として固有性を獲得してくるのか、その状況・態様を吟味し検討することである。心理学が、師範学校の教科目として位置づけられ、教師養成教育に導入され、「敎育の心理學」の固有の領域を形成する過程を、当時の日本の国際関係・海外進出の中で解明する論考は見当たらない。当時の心理学研究の目的・意義を日本の東アジアへの侵略・世界大戦と関連づけて考察する。とりわけ、太平洋戦争時(1941年12月~1945年8月)、日本の植民地であった臺灣、中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)、さらにドイツ及び連合国側にありナチスドイツに占領されホロコースト(holocaust, Shoah)に加担したフランス(1940-1945)における戦跡、戦争記念館・資料館を現地調査し、当時の状況が当事国・現地で今どのように展示・公開され、さらに理解され解釈されているのか、聞き取り調査も含めて検討する。
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次年度使用額が生じた理由 |
海外調査を前年度に実施したが、円安の影響もあり、必要経費に余裕を持たせて支出していたことと、一部不足を懸念して個人研究費から充当したため差額が生じた。今年度に学会発表、海外調査、公開用の資料の作成のために有効に活用する予定である。既に紀要論文としては一部発表・公刊しており、今年度さらに新たな調査を実施し、新規のデータを考慮して全体としてまとめる予定である。その際、質的データの解析を予定しており、解析ツールが必要でそのための支出を予定している。また、広く論文を公開し、今後につなげる有益な示唆を学会、研究会等で得るために、紙媒体の資料も作成する必要があると考え、計画している。
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次年度使用額の使用計画 |
今年度に学会発表、海外調査(戦時中日本が盛んに心理学関係の文献・資料を輸入・翻訳し取り入れたドイツでの資料収集と現地調査)、公開用の資料の作成、等に有効に活用する予定である。既に紀要論文としては一部発表・公刊しており、今年度さらに新たな調査を実施し、新規のデータを考慮して全体としてまとめる予定である。その際、質的データの解析を予定しており、解析ツールが必要でそのための支出を予定している。また、広く論文を公開し、今後につなげる有益な示唆を学会、研究会等で得るために、紙媒体の資料も作成する必要があると考え、計画している。
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