咸宜園系譜塾の質的解明を目指して、屏陽義塾と培養舎の教育活動を明らかにした。屏陽義塾は、咸宜園の門人である柳川竹堂によって、讃岐国三野郡上高瀬村(現香川県三豊市高瀬町)に明治3年(1870))に開設された漢学塾で、各種学校として同29年(1896)まで続いた。培養舎は、咸宜園の門人である横井寿一郎によって豊前国下毛郡永添村に創設され、のちに萱津村に移された漢学塾である(永添村・萱津村のいずれも現大分県中津市)。元治2年(慶応元年1865)から明治3年(1870)まで続いた。 屏陽義塾については、咸宜園教育を導入していたようすがうかがえた。明治13年(1880)には咸宜園と同様に試業が行われ、試業が点数評価されていたことが確認できた。明治16年(1883)以後については、詩学科を設けてそのなかで『遠思楼詩鈔』を教科書に指定していたことや、東西に分かれた寄宿舎を完備して多くの寄宿生を受け入れていた点、詩・文・書会が設定されたことにも咸宜園の影響が見いだせた。しかし、課業や試業で獲得した点数によって毎月の昇級が可能だった咸宜園とは異なり、屏陽義塾ではあらかじめ定められた期間の修学を必要とした。月旦評が採用されたことや、職任制をとっていたことも確認できない。これらのことから、各種学校としての屏陽義塾では、咸宜園系譜塾としての特徴は後退していたとみなさざるを得ない。 培養舎は、永添村(私塾)でも萱津町(家塾)でも、咸宜園に倣った点数評価方式を採用していた点では一貫する。いっぽうで、中津藩の実情に合わせた独自性もうかがえた。培養舎の事例から、系譜塾が単に咸宜園教育方式を踏襲するのではなく、塾生の実態に合わせて教育の方法や内容を変えていたことが明らかとなった。
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