研究課題/領域番号 |
25381051
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研究種目 |
基盤研究(C)
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研究機関 | こども教育宝仙大学 |
研究代表者 |
佐野 通夫 こども教育宝仙大学, 公私立大学の部局等, 教授 (20170813)
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研究期間 (年度) |
2013-04-01 – 2017-03-31
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キーワード | 朝鮮 / 台湾 / 植民地 / 教育政策 / 教育認識 |
研究概要 |
本研究の目的は、20 世紀前半における日本のアジア教育認識および、それに対応する朝鮮・台湾側の教育認識を明らかにし、その教育政策、特に植民地教育政策との関連を解明することである。 本年度においては、朝鮮の新聞を軸に教育関連記事の抽出を行なった。 1920年代は、「教育熱」が示されると同時に、植民地下において唯一朝鮮人の声が言論として表に出された時代であった。1920年3月5日には『朝鮮日報』、4月1日には『東亜日報』、『時事新聞』が発刊された。それ以前の「武断統治期」には、旧韓末の『大韓毎日申報』の流れを汲む『毎日申報』という朝鮮語紙が存在したが、これは全くの総督府の御用新聞となっていた。また、1930年代には戦時体制下に入り、再び朝鮮人の声は押しつぶされていく。この民族系新聞の発刊も一つの民族運動として捉えられていた。『東亜日報社史』は次のように記している。 「全国の支局・分局網を組織するとき、東亜日報の場合はその新聞の性格上、単純に販売のみを主にして組織することはできなかった。最初から「民衆との血脈が通じた一大民族的組織」とするという意図の下に地方の愛国的有力人士を支局長に任命して支局を設置し、その支局長の責任下、支局直轄地域以外に分局を設置し(本社直轄分局も若干あったが)、各支局・分局はその地方の販売(あわせて広告も)と取材をあわせて担当することが組織の大体だった。」 このように、教育政策の受け手であった民衆や、社会構成員等の受け止め方を明らかにすることは、植民地教育政策研究にとって大きな意味を持つ。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
研究目的、研究計画・方法に記載の通り、関連資料の抽出・整理作業、訪韓および訪台しての韓国や台湾の研究者との意見交換を行ない、順調に推移している。
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今後の研究の推進方策 |
研究計画・方法に従い、作業を継続し、中間的な成果まとめを行なっていく。
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