対象の膨大な史(資)料調査を行う際の指針を構築する為に、前年度に引き続き、近世林業に関する先行研究及び関連する周辺領域の既往研究を渉猟し、木材生産という視点で再構成することを行った。特に今年度は、京都市内の木材流通に重点を置いて研究を行った。 すなわち、京都における丹波材林業の流通拠点であった嵯峨に着目した。平安京遷都以来の木材供給地であった丹波からの産出材は、大堰川を筏で移出され、嵯峨で集荷されて、嵯峨街道から三条通へという陸路で平安京内へ運ばれた。中世末期までは公用材が流通の中心であったが、近世には山役銭の賦課や木材販売の権利争いなどの史料から、市場移出材も流入するようになったことが確認できた。この時期の丹波材は、山方と筏問屋と材木問屋によって営まれ、年間60万本に及ぶ産出量からも、貨幣経済の活性化とともに、京都の木材流通が発展していったことが明かである。さらに、丹波材を扱った嵯峨、梅津、桂に、株仲間による三カ所材木問屋が成立した。嵯峨と梅津は中世以来の津を前身とし、桂は秀吉の大坂城築城用材の搬出湊として成立したものであった。しかし近世中頃に、おそらくは森林資源の不足により材木問屋の不振が生じ、材木問屋は町方の支配下となった。幕末には不振対策として、材木問屋は生産地との関係を深めて体制の強化を図るとともに、京内の材木商人との結束を強めた。すなわち、嵯峨組は四条以北の堀川辺の、梅津組は中心部の、桂組は四条以南の商人と結んで材木を販売した。 以上のように木材流通の拠点として最大消費地のひとつに近い立地条件に恵まれた嵯峨は、水運と陸運の結束点としての特質も備えており、水運に関する産地と、陸運に関する販売商人との関係を強化していくことで、近世後期の木材不足に対応した、すなわち地域を重視した経済の在り方が経済的危機を乗り越えるひとつの有効な方法であった、という知見を得ることが出来た。
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