本研究はスポーツ史としての立場から、慶応元年12月までの長崎における競馬場設置に関する交渉の内容を明らかにすることを目的とした。初代イギリス公使であったオールコックは長崎外国人居留地に住む外国人の「運動」のために競馬場の設置を要求した。長崎奉行とオールコックの交渉は少なくとも文久3年には開始されていた。長崎奉行は長さ752間の競馬場絵図面を作成していた。しかし、候補地の未決や費用をめぐって交渉がまとまらず、同意に至らなかった。慶応元年12月以降交渉は複雑になり、慶応2年末に競馬場設置交渉は終息したとみられる。
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