1940年前後に、朝鮮では、日本語表現の送り手と受け手における、対象に関する理解や知識の落差をめぐる多様な議論と実践が存在したこと。及び台湾では、「台湾文化」をめぐる日本語での表象に関して、特にその表象がもつ均質性をめぐり種々の試みがなされたこと。そして「満洲」では、満系作家のテキストの日本語訳がもつ社会的地位が、「満洲国」の文芸管理体制とは同調せず、ただしその存在を尊重されるものとして確立、強化されたことをそれぞれ明らかにした。それらは、上記の地域で暮らす人々が、日本語に対する主導権を確保し、その使用を自らにとって生産的なものとしていった集合的実践という共通点をもつ。
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