本研究の期間全体を通じた主たる実績としては、当初より研究計画の二つの柱としていた翻訳書籍の出版及び博士論文の完成をあげることができる。各々の概要は以下の通りである。 1)翻訳書籍の出版 19世紀ヴィクトリア朝を代表する作家の一人チャールズ・ディケンズを取り上げ、その初期・中期・後期の三つの長編小説からそれぞれ読みどころを抜粋して翻訳し、一冊の文庫書籍としてまとめ、集英社より出版した。この書籍完成により、ディケンズという作家の「語り」の特徴や経年的変化を、一般読者にも親しみやすい形で提示することができた。また出版にあたり、芥川賞作家辻原昇氏による解説を付すことで、日本の作家の目からみたディケンズの「語り」の特徴の解説と、実際の翻訳とを合わせて通読する形式を実現した。 2)博士論文の作成 研究期間後半、特に最終年度には、ディケンズの語りの手法を、19世紀の活字文化の隆盛と絡めて論じた博士論文を完成させた。一般にディケンズは、19世紀の活字文化の申し子として捉えられる傾向にあるが、本論文では、実際のテクスト上に交錯する語り手の音声と印刷文字との織りあいを分析することで、この点の再考を目指した。具体的には、特にディケンズの前期から中期にかけての五作品に焦点を絞り、一つ一つの作品を精読し、当時の社会背景に照らしてその意味を読み解くことで、ディケンズという作家の上に交錯する二つのべクトル――個人として、時代の流れに呑まれることを怖れ、前時代的音声言語の使用へと回帰しようとする志向と、時代の寵児として、否応なく時代の流れに流されながら、その流れを自ら作っていかざるを得ないダイナミズム――に照射した。
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