本年度はまず、仏教色を強調した対中国交渉が最も多く行われた梁代について、梁の対外認識を視覚的に表現した「職貢図」に関する分析を行った。その結果、「職貢図」には、仏典からくるイメージを投影した使者図(中天竺使者図)など、作成者・見る者にとってのあるべき姿が描かれたと思われる事例が存在することを指摘した。 仏教が持つ求心力を王権に取り込むために行われた崇仏政策については、勅撰経録の編纂や寺院造営に着目した。勅撰目録編纂は、南朝梁で誕生し、北朝・隋・唐に継承された。目録編纂と連動して、皇帝主導で一切経を書写することも始まる。他方、日本古代の一切経写経について先行研究では、新羅への優越、唐との平等を主張することが目的であったと論じられている。しかし日本は、中国で漢訳された経典を、唐代の勅撰目録に則って書写したに過ぎない。唐との対等を志向した吐番が、勅撰目録を作成、チベット語一切経を整備したことと比較するに、日本の一切経書写に上記のような意義を求めることは不適当であろう。 かつては、平城京の大寺が長岡京・平安京へ移転されなかった事由を、平城京仏教勢力の介入を阻止するためと説明することがあった。とはいえ、北魏・隋などで、王権の正統性を視覚的に主張する装置として一部寺院を移転することはあったものの、東アジアでは、遷都において寺院を移転させることはさほど一般的ではなかった。藤原京から平城京への寺院移転も、当時の王権(天武系)が正統性を主張するのに必要だったのであり、皇統が天智系に移った後には同様の必然性が見出されず、寺院は移転されなかったとの側面を認めるべきである。 昨年度の研究成果も踏まえるに、仏教を受容したアジアの諸国が、種々の手段によって仏教の持つ求心力を王権に内包したことで、各国の対外政策・認識には仏教色が濃厚に取り込まれていったと結論づけることができよう。
|