本研究では、1)薩摩藩における奥向構造を人的・組織的・史料的に把握・復元すること、2)復元した奥向をそれ自体が独立した組織ではなく、表向(政治の場)と相互に補完し合う「政治機構」として、藩政に果たした役割を大名・藩研究のなかに位置づけることを目的とする。したがって、同時代の、異なる人物の手元で作成された複数の奥日記を分析対象とすることで、奥向構造の人的・組織的・史料的な全体像を把握・復元するという研究方法を採った。 2014年度に今年度分の史料をデジタルカメラにて撮影し終えていたため、2013年度に行った人物比定や用語集などの基礎データをもとに以下の作業を行った。 文久2年、3年は、薩摩藩にとって、尊王派などを鎮撫した寺田屋事件、島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を供回りの藩士が殺傷した生麦事件、そのもつれから起こった薩英戦争など、藩内外のみならず、外国との関係においても「御家」存続の危機に直面した時期であった。そこで、文久2年:「弓印道中日記」1冊、「典姫様日記」1冊、「槇印日記」4冊、「玉里詰所日記」1冊、「詰所日記」1冊、文久3年:「表方祐筆間日記」1冊、「弓印日記」1冊、「槇印日記」4冊、「玉里詰所日記」1冊、「詰所日記」1冊の史料の翻刻・分析作業を行った。 複数の奥日記のなかに、小松帯刀の書状など表向の動向を示す史料が書き写されており、それらに関心が寄せられていたことがわかった。どのような情報が書写され、あるいは書写されなかったのか、今後の検討課題としたい。
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