最終年度は、過去三年間の研究成果の活字化に費やした。9月末にインドで刊行されているベンガル研究の学術雑誌に投稿した(現在、審査中)。 英領インドの言語・教育・官吏登用政策に関する従来のイギリス帝国史研究は、現地人官吏の養成を目的とする「英語教育」の結果として台頭した「教育された現地人」が、白人の<優越性>への脅威となるにつれて人種主義の標的となったことを論じてきた。それに対し本研究は、「英語教育」が実際には「教育された現地人」よりも「生半可に教育された現地人」という<落伍者>をはるかに多く生み出し、後者の経済的不満が体制批判につながる恐れが別の人種主義を喚起していたという仮説をたてた。仮説を立証すべく、本科研ではベンガルにおけるカルカッタ大学を中心とした高等教育と官僚制の関係を事例としてとりあげ、史料の詳細な分析を通した実証研究を試みた。その結果、反植民地主義的なナショナリズム運動が本格化する1880年代半ば以前においては、現地人のエリートよりも、むしろ「エリートのなりそこない」と見なされた人々の増大および彼らの貧困化、そしてかれらの不満が反体制化することを懸念する声がイギリスの支配者層の間で広まったこと、そして、やがてそれが「英語教育」そのものを疑問視する潮流を生みだしたことが明らかになった。「生半可に教育された現地人」という植民地的範疇が帝国の人種政治に一定の重要性を持ったという仮説は、大筋において立証されたと言ってよい。 一方、4年間という時間の制約もあり、本研究では1880年代半ば以降の時期については調べきれなかった。また、被支配者側の「英語教育」観についても十分に掘り下げるに至らなかった。今後は、こうした課題を踏まえてさらに研究を進め、より全体的な歴史像の構築を試みたい。
|