この3年間、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの各国公文書館において史料調査を行ったが、文書の開示状況にはバラツキが多く、また現時点では収集した全ての史料を精査できているわけではないため、以下の研究報告は暫定的なものである。 1975年にヘルシンキで全欧州安全保障協力会議が開催され、ヨーロッパ冷戦はデタント(緊張緩和)の頂点を迎えた。1970年代後半は、さらなる緊張緩和が期待される一方で、具体的にどの分野で協力を進めるのかについてコンセンサスを得ることができず、むしろ新冷戦と呼ばれる新たな時代へと向かっていったと言える。 とりわけ、軍縮・軍備管理分野におけるデタントは、主要国の思惑の相違が顕著であった。米ソは共に戦略核兵器の分野で削減を目指したものの、ソ連は戦域核兵器の近代化および配備を進め、他方で英仏は自国の核兵器の削減に消極的であった。通常兵力に関しては、フランスのジスカール・デスタン大統領が新たな軍縮イニシアチブを打ち出すものの、ソ連は消極的で、アメリカもまたNATOの軍備増強を望んだ。 カーター大統領はデタント支持の立場を示し、1977年のNATO首脳会議で「東西関係の長期的傾向の研究」を行うことを提案するが、その実際の狙いは西欧諸国にさらなる軍事負担を求めることにあった。またカーターの人権外交が、米ソ関係を悪化させただけに終わったことはよく知られる。 経済デタントも、西ヨーロッパ諸国の景気後退で東西貿易は縮小し、東側陣営が期待したほど進展しなかった。西ヨーロッパ諸国はさらなる緊張の高まりを望まなかったものの、ソ連が軍縮に消極的あったこと、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻、1981-82年のポーランド危機などによって、東西関係改善の機運は失われていくことになった。 今後はさらに史料の読解を進め、上記の分析結果を論文等で公表できるよう研究を進めていく予定である。
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