1930年代のイギリスにおけるジャーナリストを対象に、専門職化の構想を解明した。ほかの職業同様、医者や弁護士を専門職化のモデルとしていたことがわかった。新聞への寄稿を妨げ、専業ジャーナリストに紙面を独占させるため、彼らは「閉ざされた専門職」を目標に資格化を検討する。しかし、国家資格は政府の統制につながる、雇用の自由を侵害するといった懸念が表明され、労働組合の衰退につながるという反対もあった。ジャーナリスト登録法案は数度にわたり議会へ提案されたが、審議に入ることなく廃案となった。 次に、ジャーナリスト訓練評議会の成立過程を検討した。ロンドン大学のジャーナリズムのためのディプロマコースは、第二次世界大戦の勃発により中断され、戦後も復活しなかった。ケムズレーはこうした高等教育より体系的な職業訓練を重視し、1947年、新聞社主導の訓練スキームを開始する。一方、経営者団体の新聞協会は、ジャーナリスト協会、ジャーナリスト組合に呼びかけ、訓練のため業界全体で委員会を作ろうと試みた。しかし、新人の選抜、採用に関する権利をめぐり交渉は難航、訓練スキームは頓挫してしまう。前進を後押ししたのは、1949年に発表されたプレスに関する王立委員会の勧告だった。 最後に、20世紀後半、高等教育の拡大とともに大卒のジャーナリストが増えた点について考察した。メディアやコミュニケーションを教える学部、学科が乱立し、業界団体による試験、国家資格NVQや新聞社による自社養成など、イギリスのジャーナリスト教育は複雑化してきた。ジャーナリズムを目指す若者の数は明らかに需要を上回っている。熾烈な競争を勝ち抜くため学位やディプロマは当然となり、経験を積むため無給で働くこともいとわない。個人に転嫁された訓練コストをまかなうのは親、兄弟からの経済的援助であり、ジャーナリストの出自はますます裕福になっていることがわかった。
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