本研究では、「朱子学」における初学教育書『小学』を江戸期の儒者がどのように用いようと試みたのか、その意識の解明を試みたものである。 江戸前期から通してみていったとき、17世紀のうちには儒書の出版に力を入れていた中村惕斎や貝原益軒による『小学』の刊行をはじめとして、教訓的仮名草子の普及など、道徳教育用のテキストの普及からはじまった。『小学』の積極的利用は、山崎闇斎が『大和小学』を著して自らの学問に組み込んだように、とりわけ闇斎学派の儒者にみることが出来る。とりわけ闇斎高弟の三宅尚斎が私塾において、庶民教育の書として『小学』を導入した。さらに18世紀半ばになると尚斎門下の蟹養斎が、『小学』から『大学』へと至る理論背景について考察・説明し、具体的な実践として理論化を試みているのである。また蟹養斎と同時期、闇斎学派以外の「朱子学者」の河口静斎が、『小学』について論じている。古文辞学派の太宰春台が朱子学批判の一端として『小学』を批判しており、静斎はそれに反駁していたのである。春台は、内容的に「童子の学」ではないことを批判する。『実語教』や『三字経』など、童子向けの往来物や教訓書などが読まれるようになるなか、主に漢籍の抜萃によって成り立っている『小学』は、子供向けの書として難度が高いのは明らかである。ただ、春台の批判に対して静斎は、そもそも「子供向け」では無い点を批判し、「終身の学」であると主張した。この様に、江戸中期において蟹養斎や河口静斎によって『小学』は単に童子向けの書物としてではなく、儒学教育の書として理解されるようになり、江戸後期に至って藩校教育などにおいて、儒教経典の一つとして教科書的に用いられるには、このような具体的な実践への考察を踏まえてのものであったことが明らかとなった。
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