戦前期における日本技術論の旗手の一人であった相川春喜(1909~1953)の諸著作をはじめ、関連する文献を渉猟し、1940年代に相川が、実践的な生産過程での人間主体と客観的事物とを統合する媒介としての技術という規定にたどりついていたことを確認し、その知的営為を思想的・政治的文脈のもとに位置づけた。 技術概念をめぐる論争は、戦前日本においては唯物論研究会内部で開始され、当初の唯物的規定(道具や機械のような労働手段に技術概念を集約させる)から、次第に人間主体を重要視し、有機体論・主客の統合といった哲学的考察も包摂したそれへと展開していった。ちょうど日中戦争の深刻化と太平洋戦争にむかっての国際関係の緊張化の時期、科学技術振興が叫ばれた時期であり、こういった社会政治的要素もまた、技術論の展開に大きく影響している。本研究では、1)元来唯物論研究会のなかでも「最左翼」であり労働手段にのみ技術を看取しようとしていた相川が、1936年の検挙後、自身の見解を撤回し、1940年代に入ると上述したような規定にたどりついたこと、2)こうした転回は官憲に迫られての「転向」の結果であったと同時に、唯物論研究会内部でも元来相川に加えられていた批判点、当時の日本思想界で議論されていた全体論や主客の統合といった論点を相川なりに消化し、バランスのとれた技術論を構築しようとした知的営為の結果であったこと、3)しかし結局相川の実践的技術論は、国家のための技術展開を呼びかけるものになってしまったこと、を明らかにした。
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