本研究は上古中国の機能語が文法化によってどのように成立したのかを、出土・伝世資料双方を用いつつ検討したものである。文法化は上古中国語研究の一大関心事であるが、その研究は従来、統語的機能面の検証に重きが置かれてきた。しかし現在、上古の機能語については具体的な意味や談話機能も判明しつつあり、このような現状を踏まえ本研究は、これまで看過されがちであった機能語の具体的な意味や談話機能に着目しつつ、個別の事例として「于」「而」「其」の3つを取り上げ、個々の機能語に対する意味的談話的分析の結果を、文法化研究という文脈に取り込みつつ、文法化の事例としてより高度に一般化することを目指した。「于」と「而」については昨年度までで完遂しており、本年度は「其」の殷代から戦国時代までの展開に焦点を絞って研究を遂行した。 「其」はもともとは、命題内容を非現実のものとして語るirrealis markerであると考えるのが本研究が結論である。「其」の殷代甲骨文から戦国時代の各種用法はいずれも非現実という視点を通して説明できる。例えば、「其」は甲骨文では望ましくない選択肢をマークする成分とみられてきたが、これは話し手が「其」を用いて望ましくない事態を現実から切り離すことで、その実現を遠くに位置づけようとする感情によるものだと考えられる。また、春秋戦国時代に見える、「其」の意志・命令・推量・仮定・反語といった各種意味も非現実事態として解釈できる。 さらに、「其」は殷代から戦国時代にかけて緩やかながらも意味的変化が起こっていることも判明した。例えば、西周時代の資料では「其」は単純に話し手から見て当該事態の実現が直近ではないことを表す成分であったが、春秋戦国時代では、politenessなど語用論的意味を帯びている。 本年度は以上の内容を博士論文(課程博士)としてまとめ、提出するに至った(提出機関:東京大学)。
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