研究課題/領域番号 |
26350015
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研究機関 | 秋田公立美術大学 |
研究代表者 |
天貝 義教 秋田公立美術大学, 美術学部, 教授 (30279533)
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研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2017-03-31
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キーワード | 平山英三 / トリノ万国博覧会 / 商品改良会 / 安田禄造 / 図案及応用作品展 / 工芸展覧会 / 東京高等工芸学校 / 近代デザイン理念 |
研究実績の概要 |
平成26年度は主として1911年のトリノ万国博覧会への日本の参加と、平山英三のトリノ博に関連したヨーロッパ滞在日記に関して下記の研究調査をおこなった。 (1)平山英三のヨーロッパ滞在日記のデジタル資料化と内容の分析・精査 (2)トリノ万国博覧会関連資料の収集と分析 (3)イタリア共和国トリノ市現地調査 上記(1)の実施内容については、明治四二年一二月から明治四五年二月にいたるまで、三冊の小型手帳にしたためられた日記の複写をデジタル・データ化し、その内容について分析・精査をおこなった。その結果、長期にわたる平山のヨーロッパ滞在は、万国博覧会開催地のトリノ市、ローマ市を中心とするものであったが、開催前後の時期をふくめ、開催地にとどまらず二〇世紀初頭のヨーロッパ大陸諸国の家具調度品に関する感想をふくめ、幅広い見聞が記録されていたことが明らかになった。(2)については、日本においてまとめられた事務報告書を中心に、現地イタリアで発行されたガイドブック等を中心に収集するとともに、国内外の公共図書館においてデジタル化資料として公開されたている文献史料を収集し、内容を分析し精査した。その結果、トリノにおいて1902年に開催された第一回現代装飾美術国際博覧会につづいた1911年の万国博覧会当時、建築をふくむ家具デザインについて、アール・ヌーヴォー様式の流行は沈静化し、歴史主義に連なる厳格な装飾様式への回帰と民族的・地域的伝統にもとづく装飾様式の重視がみられるとともに、流行の変化における新規性への関心の高まりがあったことが明らかになった。これは、(3)のトリノ市における現地調査を通じても明らかになった。トリノ万国博覧会におけるこれらの経験が、帰国後の平山英三の商品改良会にみられるアール・ヌーヴォー批判の重要な根拠のひとつであったと指摘できる。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
平山英三のヨーロッパ滞在日記については、当初の計画では、デジタル化した資料を本学図書館等の公共機関を通じて一般公開する予定であったが、資料の提供者の要請にもとづき、デジタル化した平山英三の日記の複写については、一般不特定多数への全面的な公開は取りやめ、公開については学術研究に限定し、口頭ならびに論文発表のさいに一部引用という形をとっておこなうこととした。また日記の内容を精査した結果、トリノの万国博覧会に関する記述にとどまらず、ローマの国際美術博覧会についても詳細な記述があり、イタリア以外のヨーロッパ主要都市であるパリ、ミュンヘン、ウィーン、ブタペストなどについても滞在ホテルなどを中心とした家具調度品・応用美術品に関する詳細な観察が記録されていることが明らかになった。 日記の記述にもとづく現地調査は、本来であるなら、日記の分析から明らかになった平山の足跡の全行程についておこなうのが理想であるが、時間と費用の関係から、博覧会の主たる会場となったトリノ市に限定しておこなった。 日記の記述内容にもとづいておこなったトリノ市の現地調査では、博覧会会場跡地ならびにトリノ市公文書館をはじめとして主要な公共図書館において日本の出品物に関する所蔵資料調査を進めたものの、悉皆的な調査にはいたらなかった。しかしながら、1911年のトリノ博の前後に建設されたと思われる住宅建築の装飾については、1902年にトリノ市で開催された現代装飾美術国際博覧会において主流だったアール・ヌーヴォー様式から伝統的かつ民族的な装飾様式への変化が確認された。さらにその装飾が厳格さによって特徴づけられていることが確認できた。平山英三の日記以外の日本国内におけるトリノ博関連資料の収集ついては、日本の出品展示に関わったと考えられる民間企業に一部資料の保存が確認できたが、26年度は全面的な調査にはいたらなかった。
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今後の研究の推進方策 |
平成27年度から平成28年度にかけて、(1)引きつづきトリノ万国博覧会日本参同に関する資料の収集と内容分析をおこなうとともに1902年にトリノで開催された第一回現代装飾美術国際博覧会に関する資料・文献の収集と内容分析を進める。それらの資料調査にあわせて、(2)トリノ万国博覧会と同時期に開催されたローマ国際美術博覧会への日本参同に関する情報と資料の収集をおこなう。 また(3)安田禄造のウィーン留学についての情報と資料の収集と調査を進め、その内容と平山英三の日記の記述内容と照らしあわせて、当時の平山英三と安田禄造のヨーロッパにおける交流の内容を明らかにするために、(4)ローマにおいてローマ国際美術博覧会への日本参同に関するる現地調査と、(5)ウィーンにおいて安田禄造の留学に関する現地調査をおこなう。 上記の調査研究とともに、(6)平山英三ならびに松岡寿らが審査委員長を務め、多くの商品批判を残した商品改良会について、資料の収集と分析を進め、商品改良会が工芸品の意匠改良にもとづく工芸の振興運動の中心に位置づけられることを明らかにし、トリノ万国博覧会から帰国した平山英三が商品改良会において重要な役割を果たしたこと、ならびに(7)ウィーン留学後の安田禄造が平山英三の後を受けて工芸振興運動で果たした役割について明らかにする。 以上の研究調査から、(8)従来、第一次大戦後の1920年代にその形成がはじまったとされる日本の近代デザイン理念は、明治四十四年トリノ博参同と工芸振興運動によって十分に準備されていたことを明らかにする。すなわち、当時の西洋様式模倣批判の根底には、日本固有の新意匠創出への関心とともに、普遍的な経済性にもとづく流行の変化における新規性への関心があり、これらの関心が下地となって、その上に、1920年代以降のモダニズムのデザイン理念が成り立っていたと考えられるのである。
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