平成28年度は、前年度までの研究成果にもとづき、明治44年(1911)のトリノ万国博覧会ならびにローマ万国美術博覧会に出品協会の理事長として現地に派遣された平山英三の帰国後の活動について、とくに商品改良会を中心とした工芸振興にかかわる活動について、国内における関連史料の調査研究をおこない、平山の大正初期の工芸振興にかかわる評論が、その後の工芸概念をめぐる議論の重要な基礎のひとつであったことを明らかにした。 明治45年(1912)にイタリアから帰国した平山は大正元年(1912)に農商務省商品陳列所において開催された第6回商品改良会の審査委員長としてかかわり、日本の商品デザインについて、当時日本国内で流行していたアールヌーヴォーならびにセセッション様式の模倣を厳しく批判した。この批判は、万国博覧会の開催地トリノ、ローマにおける平山の見聞にもとづいていることが、平山の日記から明らかになった。さらに平山の日記からは、平山は万国博覧会期間中をふくめ、会期の前後にイタリアのみならず、ウィーン、パリ、ミュンヘンなどヨーロッパの主要都市を訪問して、自動車・飛行機などの交通機関にくわえて服飾・生活用品にいたるまで、最新のヨーロッパ製品の具体的な様式変化を詳細に記録していたことが読みとれる。 商品改良会は、その後、農商務省図案及応用作品展覧会(いわゆる農展)へと発展的に解消するが、この展覧会が振興を目指したのは、いわゆる美術工芸ではなく一般工芸であった。トリノ万国博覧会帰国後の商品改良会をめぐる平山の評論は、大正から昭和戦前期にいたる一般工芸の振興について重要な役割を果たしたと評価できる。
|