研究課題/領域番号 |
26350363
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研究機関 | 大阪府立大学 |
研究代表者 |
中村 治 大阪府立大学, 人間社会学部, 教授 (10189029)
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研究分担者 |
新宮 一成 京都大学, 人間・環境学研究科(研究院), 教授 (20144404)
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研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2017-03-31
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キーワード | 岩倉 / 金沢 / 精神病者保養所 / 奄美 / 精神病者監護法 / 精神病院法 / 代用精神病院 / 私宅監置 |
研究実績の概要 |
岩倉病院関係資料のスキャンを全体の半分程度まで進めた。内容の精査はまだ行えていないが、大正9年(1920)に岩倉病院が京都府代用精神病院となる頃の資料が多く、またそのころから岩倉病院が急速に大きくなっていった様子がうかがえた。そして2014年11月8日・9日に京都大学で開催された精神医学史学会のおりに、岩倉病院関係資料を展示した。 岩倉では、岩倉病院の前身である岩倉癲狂院が明治17年(1884)に創立してからも、江戸時代の大雲寺門前茶屋に由来する旅館はなくならず、むしろ大正時代末から精神病者保養所と名乗り、栄えた。その岩倉と同じく、精神病者保養所が大正時代末からたくさんあったのが金沢であり、岩倉と金沢を合わせると、日本の精神病者保養所の半分以上になったのであるが、その金沢の調査をした結果、かつての精神病者保養所の場所を特定できただけでなく、関係者から写真や資料を貸してもらえ、それを基に聞き取りを行うことができた。 奄美群島の与路島は、終戦後の一時期、1000人を越える人が住んでいたが、今は82人。与路島に医者はおらず、警察官もいない。奄美群島でも、精神病院ができたのは昭和34年(1959)の奄美病院が最初。しかも私宅監置が昭和29年(1954)まで合法的であった。それゆえ、島の人は、精神病を患う人がでると、注意深く見守り、どうしても共同生活ができないと判断されると、みなで相談して、カクと呼ばれる監置室に入れたのであった。そのような監置に関する話を実際に聞くことができる場所は、今の日本ではほとんどない。奄美群島の与路島を見ることにより、明治時代初期までの精神病患者を取り巻く状況の理解が容易になり、金沢や岩倉の精神病者保養所を見ることにより、戦前の状況の理解が容易になり、岩倉病院関係資料を見ることにより、戦後の状況の理解が容易になった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
金沢の精神病者保養所の調査は、申請時には実現は少し難しいと思っていたが、金沢大学医薬保健研究域保健学系北岡和代教授と金沢の藪一明桜ヶ丘病院精神科認定看護師の協力を得られたことにより、急に進めることができた。その結果、岩倉の保養所を見ていただけではわからなかった「精神病者保養所とはどういうものであったのか」という問題について考える手がかりが得られるようになった。また、それらがなぜ「保養所」と名乗ったのか、その理由についても考察する手がかりが得られた。その結果、保養所と病院との違いが浮かび上がり、岩倉病院であれ他の病院であれ、精神科の病院を見る一つの視点を得ることができた。また、与路島を調査することができた結果、精神を患った人を地域で看護するということがどういうことかを、よく理解することができるようになった。
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今後の研究の推進方策 |
奄美群島の与路島を見ることにより、明治時代初期までの精神病患者を取り巻く状況、つまり医者も警察官もいない状況において、地域で患者とどう向き合っていたのかということの理解が容易になり、金沢や岩倉の精神病者保養所を見ることにより、戦前の状況、つまり、私宅監置するのは体裁が悪いが、そうかといって病院に入院させると、出費がかさむし、電気ショックのような治療も怖い時にどうしたのかということの理解が容易になった。次は奄美群島や金沢の調査をさらに進めるとともに、岩倉病院関係資料を分析することにより、精神病者保養所と病院の違いがどこにあるのか、そして病院で治療を進めながら、患者を地域で看護するには、どのようなことが問題になるのかということを考えながら、研究を進めたい。
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次年度使用額が生じた理由 |
精神障害者を地域においてどのように看護していたのかという問題に関する研究が予想を越えて進展し、そのため、金沢、奄美、北海道への調査を優先したので、旅費が膨らみ、岩倉病院資料の整理を、人を雇わず自分で進めたので、人件費の執行が少なくなったため。
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次年度使用額の使用計画 |
今年度は、岩倉病院資料の整理を、人を雇ってでも、続けるとともに、それの解読にもかかりたい。
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