戦後の生活体育には,大きく分けると二つの立場がある。二つの立場は,佐々木-瀬畑論争において交差する。しかし,この論争は実証的な研究の俎上に載せられていない。そこで,本研究では,以下の点を目的として研究を行った。 (1)佐々木-瀬畑論争にいたる両者の理論的,実践的動向を探る。佐々木の場合,「認識の節」が出てくる経緯であり,瀬畑の場合,学校体育研究同志会の1960年夏までの議論の整理である。 (2)そのうえで,この論争を生活体育論争と位置づけ直し,論争の全体像を明らかにする。 本年度は,昨年度の積み残した課題である佐々木による「認識の節(発見-照合-確認-創造)」の出自について明らかにした。 期間全体としては,次のことを明らかにした。まず,紀南作文教育研究会に所属していた佐々木も,学校体育研究同志会に所属していた瀬畑もともに1960年夏の時点では「生活体育」を標榜していた。佐々木-瀬畑論争でしばしばいわれているのに反して,学校体育研究同志会ではその時点では「運動文化の継承・発展」や「運動技術の系統的指導」という考え方にたっておらず,むしろその時点から開始したと言ってよい。また,戦後の「体育科教育本質論争」は丹下(1963)の思いが強く反映していた(正木,1975)ため,理論に関わる論争についてのみ位置付いており,佐々木-瀬畑論争を含めた実践的な論争については位置づけられていなかった。さらに,両者は論争という形で二項対立のようにいわれてきたが,その時点でお互いに与え合ってきた影響は大きいと言える。本研究の成果は,投稿論文に俟つところではあるが,これらのことを明らかにすることができた。
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