最終年度は、プラトンとアリストテレスの技術哲学に焦点を当てた研究を行なった。アリストテレスは、『自然学』第II巻第1章で、運動変化の始原や原因をそれ自体に内在してもつか否かで、自然と技術を区別したが、それを『ニコマコス倫理学』の観想的学問知と行為的・製作的知の区別と重ね合わせれば、自然を対象とするのは観想的学問に、技術は自然を模倣するものにすぎなくなる。対照的に、プラトンは技術知に高い評価を与え、テクネーとソピアー(知)をほぼ互換可能な仕方で用いている。そして、プラトンは、『法律』第X巻における無神論的・機械論的自然学批判において、万物の運動の種類を、他のものを動かすことができるが自分で自分を動かすことのできない運動と、自分で自分を動かすことのできる運動とに大別する。万物の運動変化の始原となるのは、自分で自分を動かす運動にほかならない。そして、自分で自分を動かしている場合に、そのものを生きていると呼ぶのであり、それゆえ生命原理としての魂は、「自分で自分を動かす動」と正式に定義される。その魂の動が、運動変化の始原である以上、万物のなかで最も古く、魂と同族とみなされる「判断、配慮、知性、技術、そして、法律の方が、硬さ、軟らかさ、重さ、軽さよりも、より先なるものになる」(『法律』892A)ことが根拠づけられる。つまり、魂の方が物体よりも先にあったとすれば、魂の気質、性格、意欲、計算、真なる判断、配慮、記憶の方が、物体の長さ、深さ、力よりも先にあったことになり、魂が善悪や美醜、正不正の原因とされる(同896C-D)。プラトンが、技術を自然とみなすとき、自然そのものの観方を根本的に転換している。技術の基本をなすものが生命そのものの働きであるとするプラトンの技術哲学の現代的意義を見出す展望が拓けた。
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