クラカウアーの思想史的意義の解明のため、彼と共振する思考の地下水脈的な広がりを探査した。 まず、美術史家ヴァールブルクとクラカウアーとの思想的親縁性を発掘した。ヴァールブルクは19世紀のブルジョア的合理主義を批判して、人間の意識の地層にディオニュソス的な次元が潜在していることを露わにした。だが同時に彼は、そうしたデモーニッシュなものに人間が呑み込まれる危険も指摘し、それを理性によって制御することを訴えた。この複眼的視点はパノフスキーによって受け継がれ、彼は有名な映画エッセイで映画の魅力を、運動を通じて原初的衝動を観客のうちに甦らせながら、同時に様式化を通じてそれからの距離を創り出すことと規定した。ヴァールブルク学派のこうした見方は、1920年代中期からのクラカウアーのそれと大きく重なっていた。それゆえにこそクラカウアーはパノフスキーの映画論を絶賛し、またパノフスキーも、ナチズムの本質は人間を原初的な次元に退行させることだと説くクラカウアーのプロパガンダ映画論を激賞したのだった。クラカウアーとヴァールブルク学派とのこの密接な関係は、二本の論文にまとめた。 続いて、クラカウアーの思想とドゥルーズの哲学との意外な照応関係を、両者の映画理論の比較検討を通じて闡明する作業に着手した。ドゥルーズの映画記号学は、ベルクソンの哲学に依拠しながら、観客の感覚運動システムに応える「運動イメージ」の崩壊によって露呈してくる、生と行動の新たな可能性を喚起する「時間イメージ」に焦点を当てていた。他方でクラカウアーの考える映画の使命とは、観客の世界に対する日常的な見方を瓦解させつつ、「刹那」の経験を通じて、彼らに世界を全く新しい出発に満ちた未規定で偶然的なものとして見出させることだった。このように両者の立場は、濃厚な親近性を示している。この考察の結果については、現在論文を作成中である。
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