本研究では、戦前南洋群島で展開された沖縄の音楽芸能に関して、県内外での文献調査と関係者に対する国内外での聞き取り調査によって情報収集した。また、サウンドスケープの手法を取り入れながら、これまで看過されてきた沖縄の出稼ぎ移民社会における音楽芸能の創造的交流の歴史と当事者たちの記憶の掘り起こしを行った。 南洋への出稼ぎが始まったのは、三線が沖縄の庶民に普及した時期と重なる。蛇革を張ったエキゾチックな楽器と独自の音曲に対して、文化外部者である日本本土出身者や現地住民(特にチャモロ)は、異質のものと見なした。一方、沖縄の出稼ぎ移民にとって、三線は単に故郷を偲ぶ以上の意味を持った。彼らは、南洋の自由な雰囲気の中で自らのアイデンティティを探し求めるがごとくに古典音楽や舞踊を学び、沖縄芝居に興じた。その結果、沖縄の音楽文化は彼らの中だけにとどまった。 一方、現地のカロリニアンによる西洋的要素を取り入れた「行進踊り」は、ミクロネシア各地、沖縄や小笠原、日本本土出身者に模倣され、歌い踊り継がれることとなった。特に、≪ウワトロビ≫という演目は、南洋興発会社の日本人社員や日本人児童にまで伝わった。行進踊りは、戦後沖縄各地で観月祭の余興等として上演され、復興の象徴ともなった。さらに、波照間島のムシャーマにおける踊りのように、沖縄の脈絡に入り込み新しい余興の形として定着している例もあるとわかった。 また、南洋における多文化共生の記憶として沖縄に持ち帰られたのが、伊良波尹吉創作の≪南洋浜千鳥≫である。スペイン文化の影響を受けたチャモロによるバレエの動きにヒントを得たこの踊りは、伸展や回転といった琉球舞踊にはない動作を含み、洋風の衣装が用いられる。≪南洋浜千鳥≫は、名護市久志区や本部町渡久地など、南洋移民にゆかりのある地で継承されている実態が明らかになった。
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