この研究では主に元禄頃以降の江戸と18世紀~19世紀のウィーンの音楽文化、とくに一般社会あるいは下層階級の芸能に焦点を合わせ調査・分析した。研究を遂行するために数多くの日記、古文書、随筆などの史料を発掘し、両市のそれぞれの事情を明らかにした。
ウィーンの事情を調査するにあたり、未刊の資料であるマティアス・ペルトの膨大な手記を発見したことは、この研究の大きな成果のひとつといえる。19世紀初頭から半世紀にわたるウィーンの文化、経済、政治を詳しく記録するこの58巻からなる重要な史料の中から、まず1815年に開催されたウィーン会議を中心に調査した。その結果、ヨーロッパ各地よりウィーンに集まった指導者と外交官などのために、様々な催しもの、演奏会、ミサなどが上演されたことが明らかとなり、ウィーンがこのころヨーロッパの音楽文化の中心地となる実態の詳細を、目撃者の立場から具体的に把握することが可能となった。
一方、江戸ではすでに18世紀半ば以降、京都・大坂の文化がほぼ完全に接収され、新しいジャンルと様式が次々と生まれた。文化の大衆化が進む中、とくに寛政の改革後に伴う様々な法改正などが行われ、門付け芸人・大道芸人、香具師、寄席芸人、民間信仰に関わる芸人などとの間の競争と対立が激化した。そして、町奉行等がそれを裁くことに腐心し、そのため多くの記録が残っていることが明らかとなった。この豊富な史料を総合することによって江戸はウィーンと同様、社会の階層により音楽文化が異なることを具体的に示すことができた。しかし、同時に両市では音楽文化の商品化が著しく増加し、そのため市民の多くが結局同じ文化に接し、自分の町には独特な文化が存在しているという意識も次第に強化された。
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