楊洲周延を中心に、明治期の女性風俗、女子教育、近代化、洋装化、着物の変遷などを探ってきた。周延と同時期に活躍した何人かの錦絵師たちの画業を跡づけてみると、あくまでも錦絵師としてのみ生活を支えることは困難であった社会的な背景が理解され、新聞や雑誌に挿絵を描いた者も多く、周延も例外ではない。大新聞という政治的な主張がはっきりしている媒体においては当然のこと、小新聞の場合でも、政府とは対立する例が多く、そこに挿絵を描いた絵師たちもまた何がしかの政治的な潮流に巻き込まれがちであり、小林清親などはその好例(「天福六家撰」など)である。周延も改進新聞等に挿絵(須藤南翠作「新粧之佳人」、樋口一葉「別れ霜」など)を連載した。 新聞などへの寄稿によって新風俗に触れることも多かったせいもあってか、周延は他の絵師たちに比べて、女子教育への関心が高かった事が推測される。これについては文書の資料は現時点では未発掘であり、絵画表現から推測する他にない。例えば、新風俗の一つである西洋音楽への関心は、楽譜、オルガンやピアノの鍵盤などの表現が時代(明治20年代)により変化し、より正確になっていくことから分かる。また他の絵師たちよりも読書をする(または新聞を読む)女性表現の割合が高く、そこに付随する詞書によっても理解度が測られる。芳年などが描く洋装や洋書と共に描かれる婦人には揶揄するような言葉が添えられがちであるのに対して、周延にはそのような例はない。 そもそも周延は、同時代において婦人風俗に秀でた絵師であると評価されており、明治宮廷や大奥を描いた作品(「千代田之大奥」など)が多い。その得意な方面を極めたに過ぎないのか、旧来からの本質的な関心だったのかは不明ではあるが、実際に優れた明治風俗の描き手として、現在の我々にとっても資料性の高い場面を多く残してくれている。
|