海外の人々が「日本演劇」を目にする機会がほとんどなかった20世紀初頭、20年近くにわたって西欧諸国の舞台に立ち「日本演劇」の魅力を伝え、彫刻家オーギュスト・ロダンの唯一の日本人モデルともなった女優「マダム花子」の一座の実態に関する調査をおこなった。 海外における現地調査により、劇評や舞台写真等の新資料を得ることができた。ニューヨーク公共図書館(The New York Public Library)およびニューヨーク公共図書館の専門図書館パフォーミングアーツ図書館(The New York Public Library for the Performing Arts)において調査をおこない、これまでその実態がはっきりしていなかった花子一座の1907年と1909年のアメリカ公演の模様を紹介することができたのは、学界への大きな貢献であった。 マダム花子一座が本拠地としていた英国においても調査を進め、主として大英図書館(The British Library)で、新たに、新聞等に掲載された写真や図版(花子の似顔絵や舞台姿)および劇評などを得、一座の舞台の様子や人気の程を明らかにすることができた。また、それらにより、マダム花子が海外において、いつ頃まで女優として活動していたのか、その時期をほぼ確定することができた。ロンドンのアンバサダーズ劇場(現存)支配人の要請で、踊り子を集めるため、1916年、日本に一時帰国した花子は、踊り子たちを連れて英国に戻ったものの、戦争の激化で公演が困難になり、引退したと思われていたが、実際は、1918年末まで、英国各地の舞台に立ち続けていたようである。 こうした調査結果は口頭(学会)および文章(書籍)で発表した。「花子一座および日本の巡業劇団のジャポニズムへの関与」という新たな研究テーマを得ることができたのも、大きな収穫であった。
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