明治後期に定着した「良妻賢母」思想が儒教思想の影響を受けていることはまちがいないが、それに加えて進化論の強い影響を設けている。したがって、この時期「良妻賢母」思想は古くて、同時に新しい思想だったのである。ところが、その「良妻賢母」思想は、女性の振る舞いとしてはよけいなことは話すな、余計な動きをするな、心を表情に出すなという形を取る。明治30年代は高等女学校に「良妻賢母」が浸透した時期でもあったが、その教育は「家政」を中心とした「良妻賢母思想」に沿っていた。それが、教育を受けた若い女性に強い関心を持った男性知識人にとっては「謎の女」に見えたのである。 明治30年代に大流行した「女学生小説」は、教育を受けた「女の考えや心理」にも関心があったが、むしろ物語的には「女の体」に主な関心があったと言ってもいい。これに対して、明治40年代は女性への関心のあり方が、変化した時代だった。 こうした経緯と、「漱石的主人公」と呼ばれる、いわゆる「近代的知識型の人主人公」の誕生には歴史的な必然性があった。これまで文学の主人公と言えば、ロトマンの「ある領域からベルの領域に移動する人物」(『文学と文化記号論』)という定義だけしかなかった。しかし、漱石的主人公はこの定義に当てはまらない。そこで、これを「物語的主人公」と主人公の一つのパターンと限定的に考え、もう一つのパターンとして「何かについて考える人物」を「小説的主人公」と呼ぶことを提案した。まさに、これが「漱石的主人公」で、彼ら「「女の謎」について考え続けたのである。 このように考えれば、「女の謎」と「漱石的主人公」の誕生は歴史的必然性があったことがわかる。この二つの要素が合体した漱石文学が「新しく」見えたのも歴史の必然だった。
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