本研究では、藤原定家(1162(応保2)--1241(仁治2)による定家かなづかいが、定家の没後、どのように社会に受け入れられ、継承されるようになっていったのか、という面に注目し、定家以後、行阿以前のかなづかいの実行者として、藤原光俊(真観)(1203(建仁3)-1276(建治2))筆資料をとりあげ、同資料における定家かなづかいの受容と継承の実態を明らかにした。真観は、反御子左家の代表的な歌人でありながら、定家に寛喜・貞永頃から師事して多数の歌書類を書写・相伝している。真観は、定家かなづかいの忠実な実行者であり、その書写態度は、資料によっては権威主義といってもいいほどにみえることを指摘した。
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