本研究では、近代日本で朝鮮語に関わった人物らの経歴・活動・著作物を詳細に分析し、「代表的な朝鮮語の普及者」と評価されていた人物らに対する従来の評価が一面的であり、必ずしも妥当ではないことを実証した。これにより、ある人物が朝鮮語という異文化に接触した時、当時の社会的背景の中で如何にそれを受容する/しないことによって、どのような人生行路を歩むかということを明らかにした。その結果、彼らのほとんどは朝鮮語の専門家ではない市井の人々であり、彼らにとって朝鮮語という異文化は、自らの人生を切り拓くために必要に応じて利用する着脱可能なアイテムに過ぎなかったということを明らかにした。
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