収集したデータをもとに、鎌倉真言派の具体的な分析を行った。 1. 論文「源頼朝と京都の真言高僧」では、以下の事実を明らかにした。(1)1189年8月、源頼朝の要請によって東寺長者俊証・覚成が奥州藤原氏の調伏祈祷を行った。その後、朝廷が奥州征討を追認したため、その祈祷は公請と認定され、彼らは朝廷から勧賞を与えられた。(2)後白河院が奥州征討に反対していたため、頼朝は、その側近であった東寺二長者勝賢に調伏祈祷を依頼することを控えた。後白河院の乳母子であった勝賢は、木曾義仲や源義経から後白河を護持するため如意宝珠法を勤仕した。(3)1194年、源頼朝は勝賢を招いて永福寺薬師堂供養を行わせるとともに、勝賢に鎌倉幕府の長日祈祷を依頼した。これにより勝賢一門は、鎌倉末まで幕府祈祷に従事した。また、六条八幡宮別当季厳は勝賢の弟子となって醍醐寺蓮蔵院を譲られた。こうして蓮蔵院は、京都における幕府祈祷の中心の一つとなった。 2. 論文「鎌倉幕府の東国仏教政策」で、これまでの東国仏教研究の成果を概括した。そして、(1)鎌倉山門派が勝長寿院別当を100年以上にわたって独占しており、鎌倉幕府が反延暦寺政策を継続的に採った事実は存在しない、(2)鎌倉幕府は東国に新たな戒壇を設けておらず、東国仏教を自立させる意思をもっていなかった。東国仏教界は全体的に京都を中心に構築された顕密体制に包摂されており、東国仏教の自立は観応の擾乱以後のことである。 3. 論文「日本の中世社会と顕密仏教」では、浄土教の浸透によって中世では家督を保持した在俗出家が盛んとなり、(1)幕府では在俗出家の評定衆・奉行人・守護・地頭が登場した、(2)将軍・執権・連署については在俗出家の就任を認めなかったため、そのポストが空洞化する事態が発生した、と論じた。 4. 拙著『法然』では、専修念仏に帰依した鎌倉幕府御家人について触れた。
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