島根県内の浄土真宗寺院である、飯南町の明眼寺と大田市の瑞泉寺の文書整理と史料撮影を引き続き行った。特に明眼寺所蔵の和本については目録データの入力を進めた。また、瑞泉寺文書のうち、西本願寺の学林(僧侶の修学機関)から自謙宛ての書状などを翻刻し、瑞泉寺の自謙が学林の看護という役職を勤めるようになった経緯の一端を把握した。 さらに、昨年度、『日本史研究』642号に掲載された拙稿「宗旨をめぐる政教関係と僧俗の身分的分離原則」における考察を踏まえ、江戸時代における離檀(特定の寺の檀那をやめること)に対する幕府の許可方針について、問答集(全国の領主から幕府の寺社奉行、評定所に寄せられた問い合わせに対する幕府の回答を収録した史料)に載せられた事例を収集し、分析を加えた。その結果、幕府は寛文5年(1665)の「諸宗寺院法度」第四条の寺檀関係は檀那側の任意とする条文を踏まえつつも、寺院と檀家の関係、すなわち家の宗旨・檀那寺については固定すべきものと捉え、個人に即してのみ寺檀間の合意を前提に離檀を認めていたことを明らかにすることができた。 また、特に神葬祭の許可を求める事例に着目し、神職の場合は、家単位での離檀を認めるものの、個人に即しては当主と跡継ぎのみの神葬祭を認め、家族は認めていないことを確認し、この判断の背景に神職身分は家として継承されるものの、身分認定そのものは個人に即して行われていることを明らかにした。そして、このような離檀許可方針は、俗人に対しては寺法ないし社法が適用されないという、身分的分離原則に基づいていることも指摘した。
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