本研究では、17世紀から19世紀に富士信仰が近畿・東海地方においてどのように受容されたのかを検討してきた。具体的には以下の2点を検討課題とした。 1)富士山の各登山口集落に残る史料により近世における近畿・東海地方からの登拝者の地域的分布を探り、御師・山伏などの宗教者と登拝者を送り出す地域社会との関係を分析する。 2)近畿・東海地方に残る富士山登拝を含む道中記および富士(浅間)講関係の史料を収集して、参詣行為および講の特性を分析する。 1については、裾野市立富士山資料館や富士宮市教育委員会において、「道者帳」(休泊者名簿)の調査を行うとともに、報告書や自治体史類の収集につとめ、富士山への参詣者を多く出している地域を抽出した。2については、1の成果を参考にして、「道中記」や富士講の帳簿など関係史料の収集につとめ、各地域からの富士山参詣の行程や富士講の内部構造などについて検討した。最終年度は、松阪市郷土資料室や枚方市史資料室などにおいて関連史料の補足調査を行うとともに、以前に調査した史料の原本確認を行った。また研究協力者・荻野裕子氏による三重県内における富士信仰に関連する行事の民俗調査の成果と文献調査の成果を相互に検討する会合を持った。これによって、江戸時代の史料に出てくる用語の意味や儀礼の概要を類推することが可能となった。本研究においては、富士山への参詣者の分布は郡単位レベルで濃淡がはっきりしていること、富士山の登拝口に所在する寺社と各地域の参詣講が密接に結び付いていたこと、参詣のあり方は行程・儀礼などにおいて地域差があることが明らかになった。なお、これらの成果に基づき報告書を作成した。
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