近世における富士信仰については、主に江戸や関東地方の事例が研究対象となってきた。その結果、独自の礼拝対象と教義を持つ江戸の「富士講」の信仰形態が、近世の富士信仰のイメージとして定着してきた。しかし、これは富士信仰の全体像を考える上では偏ったものである。そこで、近畿・東海地方において富士信仰の事例を掘り起こし、当地方において富士信仰がどのように受容され、御師などの宗教者と地域社会の関係がいかなるものであったのかを検討することを課題とした。本研究では、この課題を考察するにあたり富士山の各登山口集落に残る史料と登拝者を送り出す地域社会に残る史料の両者を相互に分析した。
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