明代中国において、北辺防衛と沿岸防衛を軸として、辺境をいかに防衛するかということは、大問題であった。辺境に投入する人的・物的資源、財政上の負担は膨大であり、またその商業等に与える影響も大きなものがあった。その上で、辺境に駐屯して防衛に当たる官軍の適切な保持はさらに悩ましい問題であった。特に官軍兵士の相次ぐ逃亡、逃亡の原因となる上官による軍士に対する搾取、また、モンゴル等の襲撃に対する失守とその隠蔽、戦功の誤魔化し、謂わばそこにはありとあらゆる虚偽・偽計が存在したと理解されるのである。それを遼東を中心に「明代遼東武官の罪と罰‐明初から宣徳年間までを中心に‐」として発表したが、またこれを中国・廊坊市の廊坊師範学院を会場とした「明朝及其所処歴史時代国際学術研討会」において「明代遼東武官的罪与罰」として発表した。 なお、翌年度発表予定の「曹ほと于応昌‐明代万暦初期の監察事例から‐」では、万暦九年(一五八一)、総兵官李成梁専権への道が切り開かれつつあった時期の遼東に睨みを効かせていた張居正の門生である巡按山東監察御史劉台が、こともあろうに張居正の専横を弾劾したことから、却って張居正の意を受けた勢力によって劉台が失脚に追い込まれた事件を取り上げる。万暦九年当時の巡按山東監察御史于応昌はこの劉台失脚に手を貸した張居正派の人士であったと同時に、李成梁とも気脈を通じていたと見られ、李成梁に忌避された遼陽副総兵官曹ほを于応昌は失脚へと追い込んだと謂われるが、そうとも言い難いことを档案史料から論証した。 「明代中国の辺防官制における海と陸」では、文禄慶長の役において明軍を指揮した文武の高級官僚がいかなる資格において戦線に臨んだかをその肩書から分析し、陸上辺境の守備に携わる経略・総督・巡撫が禦倭とか備倭の肩書を兼ねさせることで、海洋からの圧力に明朝が対応した仕掛けを解明した。
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