戦国楚簡の楚王故事諸篇の史料性について検証するため、同じ楚簡の伝世文献である清華簡「繋年」と組み合わせることを試みた。「繋年」は西周初年から戦国初期までの諸国の活動に関する23章の史書で、その中の第8章を選んで検討した。その内容は晉と秦の関係をめぐるものであるが、『史記』にもほぼ同じ内容が見え、比較検証の方法を考える上でよい材料になると思われる。 その内容は以下の通り:晉の文公7年、秦・晉が鄭を包囲したが、鄭は秦に降るも晉には降らず、そのため晉人はこれを喜ばなかった。秦人は鄭に戍人を置き、鄭人は秦の戍人に北門の鍵を預けた。秦の戍人は人を秦に帰らせて、「私はすでに鄭の門の鍵を入手した。だから鄭を襲いに来るように」と報告させた。そこで秦軍は東進して鄭を襲撃しようとした。鄭の賈人弦高が、商売のため西行したとき、秦軍と遭遇した。そこで鄭君の命と言って、秦の三将を労った。そのため秦軍は帰ることにし、途中滑を伐ち、これを取った。晉文公は薨じたが、まだ埋葬されなかった。子襄公は自ら軍を率いて、秦軍を崤で防ぎ、大いにこれを破った。秦穆公は楚人と好みを結ぼうとして、申公儀を脱出させて帰らせ、和平を求めさせた。秦はこれよりはじめて晉と無道を重ね、楚と好みを結んだ。 当該故事は『左伝』・『国語』・『史記』を初め、『呂氏春秋』などにも見えている。それらを子細に検討して、「繋年」第8章の史料系統を検討した。
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