1946年5月から1948年11月まで行われた極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判は、マッカーサーの当初の思惑を裏切って長期化した。これは太平洋戦争の訴因だけで日本を裁こうと考えたアメリカの構想に中国側が日中戦争の訴因を組み入れるよう要求したためである。つまり中国の存在が東京裁判の性格と方向性を大きく変化させたといえる。中国は検事団だけでなく裁判官自らも日本に対して日中戦争の責任を問うという強い意志で東京裁判に臨んだ。この中国の東京裁判に対する姿勢は対日賠償要求と大きく関係を持ち、そこには中国国内の国共内戦と米ソの冷戦構造が大きな影を落としたのである。
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