研究課題/領域番号 |
26370838
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研究機関 | 愛知大学 |
研究代表者 |
伊東 利勝 愛知大学, 文学部, 教授 (60148228)
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研究期間 (年度) |
2014-04-01 – 2017-03-31
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キーワード | 民族 / 人種 / 前近代 / 人の識別 / 百一の人種 / 窟院壁画 / 王権 |
研究実績の概要 |
近代以後における人の識別用語は「民族」,前近代(ここでは植民地期以前の王国時代)においては「人種」と定義し,意味内容の違いを,19世紀はじめエーヤーワディー流域地方のビルマ語世界における「百一の人種(lu-myo taya tapa)」という概念を手がかりに考察した。「百一の人種」という用語が使用される文脈に立ち入り,この概念がいかなる現実に基づくものであったかを明らかにすることにより,「民族」概念を相対化することがその主たる目的である。 8月と12月の2回,19世紀中期以前の,ミャンマー・ヤンゴンにおいては「百一の人種)」に関する文献とその所在の,パッコクー市,サーリンヂー市ではエーヤーワディー川に沿って散在する窟院壁画の図像およびその詞書の調査を行った。 その結果,前近代においての「人種」識別は,主として地域による住民の違いに着目し,その他言語や生業,階層を加味したもので,そこには統一した区分はなかったことが明らかになった。言語や宗教,風俗・習慣など,いわゆる文化を共通とし,同様の思考・行動様式を有する政治的集団という識別・分類ではない。 たしかに,出自や出身地,階層が同じであれば似たような行動様式を有していると考えられてはいたが,それは血の問題として語られることはなかった。「所かわれば品かわる」というごとく,人は場所によってどうにでもなると理解されていたようである。 これは,同じ場所にしても,社会環境がかわれば人も変化するという認識に基づくもので,人間の性向が遺伝子によって決定されるという思い込みによる現代の「民族」概念とはまったく異なる。「人種」概念は前近代にあっては,人をまとめるためではなく,統治や支配者を正統化するための手段として用いられた。多種多様な人間を支配しているという認識が必要だったのである。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
初年度の目的であった,前近代エーヤーワディー流域地方において,「百一の人種」という場合の「人種」分類方法を,この語句が使用・説明されている文献を通して考察し,「人種」が視覚化されることの政治性をも考慮しつつ,「百一の人種」における人種(lu-myo)という言葉の意味を明らかにすることについては,一定の結論をえ,これを論文として発表することができた。 ただ,先行研究に基づき,調査を予定していた文献のすべてが発見できなかったため,これまでの業績を十分に点検・把握するにいたらなかった。それでも,文献調査の過程で,新たな関係史料を発見することができ,納得のいく結論に達することができた。
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今後の研究の推進方策 |
「百一の人種」を,王権を正統化するものとして生み出されたパラダイムとして理解するためには,さらなる歴史的事例を積み重ねなければならない。やはり未利用の文献調査により,「百一の人種」についての言及が登場するコンテクストの検討を通して,人種が王権を正統化するために作り上げられた概念であるという解釈の妥当性を検証してみる必要がある。既存文献の再調査や,未刊行の文書にまで枠を広げるとともに,窟院壁画に残された百一の人種に関する図像の検討も進めていかなければならない。 また,18 世紀後半から19 世紀前半のコンバウン王国で使用された「人種」という言葉と,社会の構成原理との関係を,地方村落コミュニティのなかでのアフムダーン(王務員)の処遇を検討することによって行う。 地方の村落に定住し、王室権力を直接支えたアフムダーンには戦争捕虜として周辺各地から連行されてきた異「人種」が数多く含まれており,村落社会はさまざまな「人種」が混住する場であった。 当時の裁判録や借金証文には,アフムダーン間のみならず他の階層の住民との関係が示されたものがある。これを手掛かりに異「人種」の社会的位置づけを検討することにより,「人種」概念がどのように作用していたかを明らかにし,「人種」が近代以降の「民族」と如何なる関係に立つのかの解明を目指す。
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次年度使用額が生じた理由 |
平成26年度に予定していた大英図書館所蔵のコンバウン王国時代における「百一の人種」に関する史料調査や,人種と民族に関するワークショップの開催が,校務等の関係で遂行できなかった。
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次年度使用額の使用計画 |
前年度に果しえなかった、大英図書館所蔵のコンバウン王国時代に関する史料調査を行ない、ミャンマーで利用できる文献に基づき構築した「地域分類としての人種」論を検証する。続いて、パコックー県やザガイン県の、エーヤーワディー川に沿った地域に存在する窟院壁画に描かれた「101 の人種」の画像を手がかりに、「人種」が描かれたことの政治的意味を検討する。当該窟院における壁画全体の構成や、その中における人種の描かれ方と、これと現実との関係を明らかにしていく。そのさい、中央アジアや中国における北伝系の仏教遺跡に描かれた同種の壁画との比較検討も行う。そして、視覚化された人種分類による検討結果により、「地域分類としての人種」論を再検討し、コンバウン王国時代における「人種」の意味を明らかにする。以上によって得られた成果を踏まえ、人種と民族についてのワークショップを開催する。
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