本研究課題に於いて、中国都城空間における空間構造の研究を続けてきたが、中国都城を王権儀礼から見たとき、11世紀以降の都城においては、中軸線街路とその周縁の千歩廊また、宮城正南門の構造において共通性を見いだすことができることが判明した。それは唐宋変革の中で、儒教の変革が発生したことと平行して起こっている。あるいは、儒教儀礼が、支配者階級だけのものでは無く、被支配者との空間共有によって盛大に行われ流ようになったことである。それは、「与民同楽」という言葉で表現される都城繁華をもってして徳治の演出を試みた宋朝の首都開封の都城空間によって検証される。この開封の都城空間は、靖康の変によって女真族の金朝によって占拠され、儒教王権儀礼についての資料は、北方に流出する。金朝は、儒教儀礼による王権儀礼南郊を中都遷都を画期として積極的に取り入れていったが、モンゴル帝国元朝はそうではなかった。元朝も宋朝の仮の首都であった臨安を占領し、宋朝が南方で再建した儒教体系を北方(大都)に持ち去るが、フビライハーンは、儒教儀礼による王権天授を実施せず、大都は開封の都城空間構造を受け継ぐものの、王権儀礼は儒教式には行われなかった。そこに元大都の特異性があるという結論を得た。今後は、フビライ以降の大都の変化について可能性を考えてみたい。また元大都と遼金都城の多民族性との比較を考えることは、有効な観点であろう。 本年度はまた、「五代十国」時代の南郊儀礼について考え、中原国家の都城における郊祀と、南方列国の都城における南郊儀礼について整理し考えてみた。後梁後唐時代においては、洛陽で、諸皇帝が南郊親祭を実施していたが、国勢が衰えた後晋や後漢では実施できず、逆に南方の後唐の建康で南郊儀礼が行われたことに注目した。
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